五臺山 正光寺とは
一関市唯一の浄土真宗寺院(本願寺派、お西)、お念仏のお寺です。
ご本尊 阿弥陀如来
「阿弥陀如来」=「阿弥陀仏」
いっさいの衆生を救うため四十八願をたてて、それを達成した西方極楽浄土にいる仏。
西方の極楽世界で法を説いた聖典が「阿弥陀経」で、浄土信仰の中心として崇拝される。
阿弥陀は梵語amitayus、amitabhaの音略。光明・寿命の無礙(むげ)・無量の意で無量寿、無量光と訳される。
無量寿は仏および仏のいる国の人々の生命が永遠であることをさし、無量光は仏の放つ光明はすべてに行き渡り、遮るものなく、人々をうけ入れることをいう。
山号 五臺山
「五臺山(五台山・ごだいさん)」
中国山西省にある古くからの霊山。仏教では文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。南北朝時代、真宗七高僧の第三祖である曇鸞が五臺山に登り、仏教の遺蹤にふれ出家したという。この真宗教義にも縁深い地名に因んで山号とした。
揮毫「島地黙雷(1838〜1911)」
明治時代に活躍した西本願寺の僧。1872年(明治5)、日本の僧侶として初めてヨーロッパ各国の宗教事情を視察。政教分離、信教の自由を主張した。
由来・沿革
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年代 | 正光寺のあゆみ |
(1593) | 文禄2年開基 釈宗悟 紫波郡不動村大字室岡の地に一宇創建 |
(1715) | 正徳5年宗悟曽孫 釈宗専 本願寺第十五世 住如宗主に請うて 寺号 正光寺賜る |
(1814) | 文化11年4月火災に遭い諸記録消失す |
(1887〜) | 明治20年代開基 淨鏡(1851〜1911) 念仏流布を決意し、現在の一関市地主町を拠点に教化活動を行う。 (写真右は淨鏡自筆の「教行信証」) |
(1891) | 明治24年西磐井郡山目村字銅谷(現一関市)念仏道場たる「磐井説教所」草創。 |
(1905) | 明治38年寺号公称する。 やがて淨鏡が改めて正光寺開基となる。 | 廃寺直前であった紫波郡不動村の「正光寺」を請うて山目村に移転。
(1913) | 大正2年〜第二世住職 淨龍(1880〜1918) 北海道布教を志し、小樽別院などで布教活動に専念。 |
(1931) | 昭和6年〜第三世住職 貫一(1909生) 昭和6年12月 現在地(一関市台町)に本堂新築建立移転。 (写真は昭和6年の整地、基礎工事、上棟式、棟札) |
(1942) | 昭和17年〜第四世住職 定心(1916〜1983) 昭和17年10月 正光寺の第四世住職に就任。同年、第四世住職継職法要を勤修。 (写真は、左:昭和17年の継職法要、中:同記念撮影、 右:一関市大町の尾張屋さんから正光寺までの行列の様子) |
(1960) | 昭和35年昭和35年5月15日 寺院完成の頃から戦時中にかけて活発に活動されたといわれている仏教婦人会であったが、 昭和35年に「正光寺 真宗 仏教婦人会」として正式に結成・登録。 (写真は左から婦人会結成の記念撮影、登録証、一番右は戦前の婦人会) | 仏教婦人会結成・登録
(1984) | 昭和59年〜第五世住職 北畠 淨春(1945〜) 昭和58年前住職還浄により同59年3月補任式終了。第五世住職に就任。 同62年11月、住職継職法要勤修(写真右)。 |
正光寺墓所のご案内
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1区画:7尺四方(2.12M×2.12M)
正光寺墓所は本堂の裏手、なだらかな傾斜地(平地)にあります。近隣には一関運動公園(野球場、陸上競技場、テニスコート、多目的広場、チビッコぼうけん広場)などがあり、散策も楽しめる好立地となっています。全区画東向きで陽当たりも良好です。
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